育てることの方向性が少し違えば

年に一度発行される、特別支援級在籍の子たちが書いた文集があります。

知っている子たちの作品を見て、正直いってひどくびっくり!

 

同じクラスのほとんど言葉も出ないU君は、それでも十分すぎるほどの文章。

U君の中の何かを出せるように育てつつ、周囲の人間がU君から何かを引き出せるように育てて、

先生が苦心して、長い時間をかけて引き出していった文章。

 

一方で、言葉も出て、意思もかなり明瞭なF小の子たちの作品は文章ではなかったんですね。

絵というか版画風の、丁度手製の絵葉書キット(塗るだけの)の絵の

感じを思ってくれれば当たりです。

彼らは丁寧に、着実に育てていったなら、おそらくU君以上の文章を

U君ほどの苦労も無く書ける力を持った子たち。

 

気持ちを文章にして書くということは発達上、とても大きな意味を持ちます。

自分の内面を<自分が客観的に見える>ものにして、<考察>できるから、

<内言>が発達する。

書き留めることで、過去の自分を記録し、思い出させ、自分の中の時間が拡がる。

すると<内省>や<反省>が出来るようになり、物事を複層的に見ることにつながっていく。

つまり、自分を自分の思考を使って発達、成長させていくことができる鍵です。

そして聞くと話すという2つの能力を<統合>をする唯一の手段。

だから、それまで使われていない脳の部分を刺激するはず。

それはその子の更なる成長につながります。

それに何より<書いて伝えられる>ことで、コミュニケーションの手段がひとつ増える♪

時差のあることでも、すぐその場で伝えられなくても、

<ああそうだったのか>って相手に伝えられる。

 

おそらくこのことは概ね間違いない。

マロンの不登校の2年半で力を注いできたのはそうした部分で、

その過程と結果を私は実際に見てもきたからいえること。

だから、昔ほどには感じなくはなったけれど、あぁ悔しいな、もったいないな・・・という気がして。

あの子達の周囲の大人たちはあの子達の成長とか発達とか人生をどう考えているんだろう。

そう思うと腹立ちに近いものも感じたりします。>未熟者

 

私は物事の出来不出来とか、得意な分野の違いとかいうのは

あったりまえで自然なことだと思っているし、

勉強の出来ないこと、特定の仕事が苦手なことって

そんなバカなことじゃないって思ってます。

 

私がバカだって思うのは、勉強とか仕事とか身の回りのこととか

出来る力があるのにそれを周りが育てなかったり、

本人の怠慢やわがままで出来なかったり、しなかったりすること。

ほんの少し、今の自分をベースにしてがんばってみることが大事だって思ってます。

 

だから、前の学校の高学年の子達を見てると悪いんだけどイラッとしてしまいます。

自分の気の向かないこと、しなくちゃいけない時間でも

気に食わないとそこで寝そべったり、わめいたり、どこかにいってしまったり・・・。

よくそれで通ってきた、周囲も通してきたねと思ってしまうからなのかな。

 

自分の能力や特性を生かして生きるって、楽しかったり、嬉しいことじゃないのかなって思います。

でも、それはある程度、自分のわがままを抑えたり、

気持ちをコントロールして自分育てをしていかないと無理な話。

 

その子の特性を生かすとか軽々しく言われてるけど、

そう叫ぶ人に限って、そのために必要な努力とか、

障害をもったその子が社会に出て行くためにどう育てるか(「ハビリテーション」といいます)

をないがしろにする傾向性は何とかならんかなと思います。

 

<自分をコントロールできないことは、自分の未来を危うくする>

そんな初歩的なこと、わからないかな、周囲の大人は。

とてもやさしく、思いやりのある子は最後にはその子から逃げざるを得ない。

強く、手足が出る子は、その子をぼこぼこにするだろうし、

それで文句も言えないだろうし。

 

いや、言ってくる親は言ってくるらしい。

実例も聞いてますが、笑止。

4 Responses to “育てることの方向性が少し違えば”

  1. rihumi より:

    家の子は重いから<障害が>というのは結構聞きますね
    実情は一緒に暮らしている訳じゃないから分からないけど
    見ている感じは、能力的にはあるように見えます。
    自然に勝手に出来るようになると思っているのかな?と
    思う節もあります。
    自然に勝手に出来ないから、重いではないような気もする場合もあります。
    だから例えば我が子が出来る事は障害が軽いから出来ていいわねという感じなのかなと
    スモールステップで進めてきた事も
    何も知らないからだとは思いますが・・・
    騒がれる方が嫌なのかな
    だから周囲は通すのかなと
    でも、そうしたら親心なるものは何処なの?と思ったり(滝汗)

  2. マコロン より:

    rihumiさん、こんばんは~
    >だから例えば我が子が出来る事は障害が軽いから出来ていいわねという感じなのかなと
    スモールステップで進めてきた事も
    何も知らないからだとは思いますが・・・
    多いですね。
    ○○くんだから出来るんでしょ、軽いから楽でしょ~みたいな。
    軽く??てもやらない子はできないってゆ~ことを認めませんね(笑)
    最近でおかしかったのは、自己主張ができるのに、自分の主張をどこでも出せるように育ててきたケース。
    もう6年なので、体格もお母さんより大きいです。
    だから、お母さんの言うことも、周囲の言うことも聞かないで、暴れたり、怒鳴ったりして歩くようになってきました。
    育てたとおりその子は育っているのに、
    「マロン君はいうこと聞けるから。」といわれました。
    だって、そのように育ててきたんだもの~とは言えませんでした。
    絶対にこの人はわからないって思ったので。
    自分は犠牲者のつもりかもしれないけど、ホントに犠牲になったのはあなたの子だよって思いました。
    妙に悲しかった。
    ホントに親心ってなに??の感じです。
    そういう感じが、F小の子たちを見ると出てきちゃうんですね。
    まだまだ伸び代があった子どもたち。
    どんな風に育っていくんだろうかな~って見ていたのに、
    こんなになっちゃったんだ・・・って。(涙)
    そして、私もマロンをつぶさずに、自己コントロールが出来るようにしていかないとなと思っています。
    肝心の教育のほとんどは小5までが勝負だとおもっているので、これからそれが試されるって感じです。
    やっぱり悔しいな。
    子どもたちが悪いんじゃないもの。

  3. えじぷしゃん♪ より:

    『私がバカだって思うのは、勉強とか仕事とか身の回りのこととか
    出来る力があるのにそれを周りが育てなかったり、
    本人の怠慢やわがままで出来なかったり、しなかったりすること。』
    あーっっ、も〜、大きく頷いちゃいます!
    『その子の特性を生かすとか軽々しく言われてるけど、そう叫ぶ人に限って、そのために必要な努力とか、
    障害をもったその子が社会に出て行くためにどう育てるか(「ハビリテーション」といいます)
    をないがしろにする傾向性は何とかならんかなと思います。』
    頷き過ぎて、首が折れちゃいそうです(笑)
    親とか指導者とか、支援する立場の基本的考え方、
    こうあるべきだと思ってます。
    私自身の言葉でうまくまとめて言えなかったけど、
    つまりそーゆーことですっっ!ってスッキリした気分。
    “利用者様”的な、本人の意思を尊重するのが一番と思ってる(ような気がする)スタッフに言ってやりたい。。

  4. マコロン より:

    とても激しく同意してもらって、ありがとうございます~♪(嬉)
    >本人の意思を尊重するのが…
    本人の意思はありのまま、というか育たないままの、わがまま、コントロールなしの気持ちだと解釈していることが、そもそもの間違い~って思います。
    本人の本当の意思っていうものは磨かれないと出てこないものだと思います。
    本人が<より本人らしくなっていく>のが成長であり、それを支えるのが教育です。
    意思とは、成長につれ、清明になっていく<その人>としての意識を源とするものだと思います。
    だから、私は子どもたちを好き勝手、野放図にさせておいて、<本人の意思>なんていっている人を信じません。
    きれいごとをいっておいて、ほんとはかかわりも苦労もしたくない単なる怠け者だと思っていますよ~。

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