表明

これから中学を選ばなくてはいけないし、

高校のことも、普通の障害の子がのるルートとは

きっと少し変わった選択をすることになるのだと思います。

 

まだまだ苦しんで進まなくてはならないのだな~と思うのですが

何か一つ、私の中でふっ切れそうになっている部分がある感じがしてきました (^^)

 

これまで一人きりではなかったとはいえるけれど、

マロンの過去とこれからの責任のすべては私にあるのであって、

そういう意味ではいつも一人の感じがしていました。

 

そして私は自分のブログやHPで

<受け入れる>とか<達観している>を発信しなくていいのじゃないかって

思えるようになってきました。

 

癌の告知でもそうだったけれど

<とにかく、受容ありき>という風潮や思想めいた主張が

専門家の中でもあった時期がありました。

受容で幸せな人、闘うことが幸せな人、

そういった個性を抹殺して、なにもかも受容が偉くていいことかという反論が私の中にありました。

 

そして、<闘うこと>をえらんだ人、<自分以外の誰かに治癒を願われた人>は

より長く生きられた、または奇跡的に治癒したというようなスタディもありました。

これもまた、長く生きることが幸せと思う人とそうではない人がいる限り

完全なよいことでもないのでしょう。

 

自閉症や発達障害自体には私は何も思っていません。

ただ、自閉症などによって、より多くの苦しみと悲しみ・・・

それはその子が耐えることのできる容量と質をはるかに越えるものが多いのだと思いますが、

そのことが私が耐え難いことです。

 

マロンは本当にとってもかわいい子で、

神様はきっと、マロンを手放したくなかっただろうとさえ思うけれど、

自閉症であるマロンは受け入れていても

自閉症がマロンを苦しめるのは受け入れられません。

 

自閉症はgiftでありながら、同時にdisorderでもあります。

どちらか一方だけをクローズアップすることは、ごまかしと変わらないように感じます。

私は自閉症が多くの苦しみをその人にもたらす限りは

自閉症を<受け入れること>も<達観する>こともないだろうと思います。

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